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それさえもおそらくは平穏な日々Ⅱ
プロフィール
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せんちゃん
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男性
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技術系
趣味:
スポーツ観戦・史跡巡り
自己紹介:
セレッソ大阪サポーター

遠征の合間に各地の
城跡巡りをするのが楽しみです。
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羽床城址

羽床城
登城日:2008.04.29

所在地 香川県綾川町羽床下
遺 構 土塁・郭

 
羽床(はゆか)氏の居城。
土佐の長宗我部元親が天正6年(1578)讃岐に侵攻。
長宗我部軍の侵攻に対して、羽床伊豆守も迎え撃ち、先鋒の伊予軍を打ち破ったものの、元親自ら指揮する長宗我部軍に羽床軍は大敗。
残兵をまとめて羽床城に引き上げた。
元親はそれ以上の追撃はせず、羽床伊豆守は長宗我部氏の軍門に降った。
長宗我部氏によって四国は統一されるが、秀吉の四国征伐で長宗我部氏は敗北、
讃岐は仙石秀久が領することになった。 
伊豆守の死後、次男資吉が羽床氏の家督を継いだが、
天正14年(1586)秀吉の命により、仙石秀久に属して九州に出陣するが、戸次川の合戦で四国勢は島津軍に完敗。
資吉は討ち死にして羽床氏の嫡流は断絶。
羽床城も廃城となった。


訪城記

松山で行われるセレッソ大阪VS愛媛FC戦の前に、讃岐うどん巡りをしていた途中での事。
カーナビに表示された羽床城に気付いた。
これは行くしかあるまい。
国道を逸れて、しばらく農村部を走ると、城跡と思われる丘に到着。

羽床城址

登山口を探すも、それらしき所が無い。
これと思われるところは、民家の敷地のようで近寄れない。

ふと見ると、地元の小学校の児童の手作り案内板があった。
やはり、ここに間違いはないのだ。

手作り看板

が、やはり分らない。
うっそうと茂る竹藪が侵入者を拒んでいるようだ。
時間もないので、登城を諦めて引き返すことにした。

羽床城址

後で調べると、場所的には間違っていないらしい。
ためらわずに、民家への道を進み、民家の手前を左に入ると城址への道だったそうだ。
奥に進むと墓地があり、城跡の石碑と案内板があるらしい。
土塁・虎口・櫓台等の遺構も良く残っているらしく、残念な結果となった。
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三原城

三原城(別名:浮城)
登城日:2007.05.29

天守 建造されず
築城主 小早川隆景
築城年 1567年
遺構 石垣、堀

去年、仕事を転職した時に、ふらりと、旅に出ました。
っつても24時間の旅でしたが。

山陽新幹線三原駅で列車を降り、上りホームに向かうと、ホームの窓から三原城跡が見えます。

(最初の写真・下の写真)

天守台

因島に向かい、再び三原に戻り、広島へ向かう列車まで少し時間があったので、天守台に向かいました。

天守台には駅構内から行く事になります。

JR通路看板

構内にある三原城の古図。
東西約900m、南北約700mの中に本丸、二之丸、三之丸、そして二層三層の隅櫓32、城門14があったといわれ、当時はその姿がまるで、海に浮いているように見えたため「浮城」と呼ばれていました。

階段を上り、天守台へと向かいます。

天守台

天守台

日本一の規模をもつこの天主台は「広島城の天守閣なら、6つも入る広さを持つ」と言われていますが、築城当時、まだ天守閣を造る思想のない時代であったので、天守台は実際に天守が建築されたことはなく、3基の櫓が設置されていました。

看板

この城は小早川家の後、福島家、浅野家が入り、広島藩の支城として幕末まで利用された。

駅との隙間

本丸跡を貫く鉄道…
あちゃぁ…

毎年のように訪れながら、船入櫓をまだ見ていない。
また、それは次回に。
河原城

河原城(別名:若鮎城)

登城日:2007.08.19
遺 構:模擬天守

所在地:烏取県鳥取市河原町大字谷一木1011
着 工:平成04年06月19日
竣 工:平成06年05月31日
開 館:平成06年09月09日
構 造:鉄筋コンクリート造3層4階建
全 高:24m

小雨の降る夏の日。
鳥取バードスタジアムへ遠征途中に立ち寄りました。
前年12月にもこの地を訪れましたが、時間がなく素通り。
今回はどうしても素通り出来なかった。

河原城

この城は、天正8年に豊臣秀吉が鳥取城攻めで因幡地方にやって来た際に陣を張った山で、丸山城と伝えられているが、この山に建物としての城はなく、従って実在の城を復元したものではありません。

ふるさとづくり一億円事業により、河原町のシンボルとして建築されました。

河原城

標高98mのお城山は車で登れます。
駐車場に車を停めて、城へ…


あゆ丸くん

入場は無料です。
気持ちを募金箱へ入れます。
ほんとに気持だけ入れるのは止めてください。
きちんと現金を入れましょう。
しおりとして使える入館券を頂きました。


1階は町のインフォメーションコーナー
2階は河原町の伝統的な産業や食文化などを展示。
「実りの秋」をテーマに和紙を使い一体一体制作された紙人形で昭和30年ごろの人々の暮らしを再現したジオラマがありました。
残念ながら撮影禁止だったので…

でも、これならいいですよね(笑)

お願い

かなり困ってるようです。
あちこちに貼ってました。
展示物は大切にしましょう。ってか、触るな。


3階は河原町に伝わる伝説と古墳時代にまでさかのぼる歴史を、映像・模型・写真パネルなどで紹介する伝説と歴史コーナーです。
「古事記」に記された八上姫伝説を立体映像で楽しめる「マジカルビジョン」は楽しめました。
おかげで時間が切迫してしまいました。
あぁ…試合開始時間が…

最上階の展望室からの眺めです。
中国山地をはじめ、千代川とその流域の鳥取平野を眺望することができます。

北側風景

東側風景

南側風景

西側風景

展望室の標高は115mになるそうです。
天気が良ければ、鳥取砂丘も見れたようです。残念。

丸山城遺構

丸山城遺構:
展望台の建設に先立ち平成03年10月から約8ヶ月かけて全面発掘調査を行いました。
その結果、堀切、柱穴、郭などの多くの遺構が発見され中世山城の跡と確認できたそうです。
・・・
・・・
駐車場脇にあったはず…
見落とした…orz


岸和田城(別称:猪伏山千亀利城 )

登城日:2007.01.24
天 守:模擬天守 

所在地 大阪府岸和田市岸城町9-1
築城主 和田高家
築城年 1334年
天守再建1954年
構 造:鉄筋コンクリート造3層
全 高:27m



仕事で移動中にちょうど昼時となりました。
車を駐車場に入れてお弁当を食べる事にしました。
入れた駐車場が何と岸和田城の駐車場。
これは行くしかないでしょう。
大急ぎで弁当を食べ終わるとダッシュで城へと向かいました。




城門です。
左に千亀利城とあります。
「ちきり」とは、機(はた)のたて糸をまく器具で、本丸と二の丸を重ねた形が「ちきり」に似ているところから由来するといわれています。



で、桜の季節には、このように・・・



後日、訪れた際に撮影しました。



花見をするにはいい場所ですね。



桜と城。
最高の被写体です。

岸和田城

話を戻します。
急ぎ足で城門をくぐり、天守へと向かいます。
天守の前には八陣の庭がありました。



八陣の庭は諸葛孔明の陣構えからとったもので、大将を中心として周りに天・地・風・雲・鳥・蛇・龍・虎の各陣を配したものです。
後ほど天守の上から見てみましょう。



最初の写真で本丸の石垣の下に、犬走り石垣といわれる周堤帯があるのがわかりますでしょうか?
軍事的な意味から考えると、本丸への敵の侵略に拠点を与えるということから矛盾した造りで、他の城では、ほとんど見られないものです。
上部の石垣が壊れ易いので、補強するために造られたものと考えられています。

また、現在の天守閣は3層ですが、本来は5層の天守閣でした。
幕府に提出した城郭普請絵図に描かれている天守閣が、すべて5層であることからも明らかです。



最上階からの岸和田の景色です。
建武元年(1334)楠正成の一族和田氏が、当時「岸」と呼ばれていたこの地に城を築き、根拠地としたことから「岸の和田氏」と呼ばれ、「岸和田」の地名の起こりになったといわれています。



もう1枚。
遠くに阪神高速湾岸線の岸和田大橋(255m)が見えます。

さて、時計の針はあと少しで1時。
展示物をゆっくり見る暇もなく、大急ぎで城を後にしました。

あ・・・
天守の上から八陣の庭、覗くの忘れた・・・OTL
岸和田城??

岸和田城ですっ! (`・ω・')シャキーン!


 ∧ ∧  え、エエねん。誰も読んどりゃせんわい・・・  
 (||。Д゚)ヘ_∧
  (つ´゙(   ) <エエ加減な事言うたら
  | 'ヽ、   ノ    アカンやろっ!
  ヾ ィ゙ , O)    
   ~"(_)、__)




失礼しました。
SA内の岸和田城レプリカだそうです…
本物はまだ遠くからしか見た事ありません。
いずれまた。
*5月3日 城めぐり3部作 最終章

浜松を出て、しばらく東進を続けると、またもや城が。

掛川城

掛川城です。

戦国時代に今川義忠が家臣、朝比奈泰煕に命じて文明年間に築城したと言われていますね。
その後、家康の領内となちましたが、1590年に家康が駿府城から江戸城に移転すると、掛川城には豊臣秀吉の直臣であった山内一豊が入城。

山内一豊…今が旬ですねぇ。

1600年、関ヶ原の戦いの後、一豊は高知城に移転しました。
その後、掛川城には多くの大名が入り、何度か城の修築も行われました。

が、幕末の大地震で、天守を含む大半の建物が倒壊。
その後、天守の再建は行われずにいたものの、1994年(平成6年)に、市民や地元企業などから十億円の募金を集め、戦後初の木造天守を再建。
今や、掛川のシンボルです。
再建する際、同じ山内一豊が築城した高知城を参考としたそうです。

残念ながら、浜松で時間を取られて急ぎの旅になった為、ここの見学も次回に持越しです。
帰りに通ると、ライトアップされてきれいでした。
気になる…

浜松城

登城日:2006.05.03
天 守:模擬天守 

所在地  静岡県浜松市中区元城町100-2
天守再建 1958年
構 造  鉄筋コンクリート造3階建


*これも5/3の記事です

岡崎城を通過して、しばらく走ると、今度は豊橋公園の横を通過。
この公園内には吉田城がある筈だが、道路からは確認出来ず。
そして、午前6:30に浜松に到着。
駐車場で仮眠した後、城見学に出掛ける。

まず、最初に目にするのが、若き日の家康公の銅像。

家康公

そして、いよいよ城へ…
・・・
・・・
何かはみ出してますよ!(汗)
はみ出してますよ…

昭和33年に旧天守跡に建てられた、新天守閣です。

浜松城

家康は29歳の時に、長子の信康に岡崎城を譲ると、浜松城に移りました。45歳で駿府城に移るまでの17年間を過ごした訳です。
その後の出世はご存知の通り。
その後の城主も次々と出世した事から、出世城と呼ばれる訳ですが、私もあやかりたいものです(泣)

野面積み

戦国の面影を残す、野面積み

顰像

城の中には鎧や肖像画などが展示されています。
レプリカばかりだけど…
写真は有名な「顰像」
三方ヶ原の戦いの敗走の後、自らの戒めにするために書かせたと言われていますね。

本丸跡を望む

天守から本丸跡を望む景色です。

本丸跡

このような配置だったようです。

500円だったかな?

記念に受付で売っていた本を買って帰りました。
*5/3の記事です

所用で大阪から静岡県磐田まで高速を使わずに走っておりました。
明け方、道路脇に城を発見!(時刻は4:40)
「おおっ!岡崎城ではないか!」
写真を撮ろうとした瞬間、トラックが横をすり抜けた。orz

岡崎・・・信用金庫

仕方ないので、岡崎信用金庫を撮ってみました。
次回は必ず!と心に誓って…


*7/23の記事です

チャンスは意外と早く訪れた。
所用で静岡県清水へ行く事になった。
生憎と、行きは高速で。
帰りにひたすら国道を走り、やって来ました。岡崎城!
ここが、徳川家康生誕の地として有名なお城ですね。
江戸時代には岡崎藩の藩庁であり、廃藩置県の後も城内に県庁が置かれていました。
しかし、県の統合により県庁が名古屋に移転。
あえなく取り壊し… ('・ω・`) ショボーン
しかし、1959年 天守が復元されました。
これが、その天守ですっ!
・・・
・・・
・・・
すみません、時刻は夜中の2時でした。
写りません(泣)
何とか、カメラを固定したりして頑張りましたが、ダメでした。
暗すぎます!
モロに肝試し状態でした。
怖かったです!
しまいに、白い靄が写るし!
…自分が吸ってたタバコの煙でした(マジ、ビビました)
そんな訳で、今回も看板でご勘弁を。

岡崎城!…の看板

次回こそ必ず (`・ω・')シャキーン!
2日に仕事で伊賀上野に行って来ました。
遠くに見える上野城。
以前、訪れたのは13年前です。
懐かしい。
思わず寄り道したくなりましたが、仕事中。
小さくしか写らない写真だけ撮りました。

上野城

上野城
天正 9年(1581)滝川雄利が築城。
天正11年(1583)脇坂安治が攻略。滝川氏は伊勢へ逃れる。
天正13年(1585)筒井定次が大和郡山から移封、大改修を行うも
慶長13年(1608)改易、江戸で切腹 (T_T)
           伊予から藤堂高虎が伊賀・伊勢の城主となる
慶長16年(1611)大改修を行う
慶長17年(1612)大暴風雨により、竣工直前に天守閣崩壊。以後廃城 _| ̄|○
           本城を津に、伊賀に城代を置きました
昭和 7年(1932)川崎克氏が私財により再建着手
昭和10年(1935)現在の文化産業城を完成しました

正式名称は 伊賀文化産業城。
白鳳城、伊賀上野城と呼ばれていますね。

パンフレットより

13年前のパンフレットの写真
きちんとスキャナで読み取りたいところでしたが、ダルイ時間が無いのでデジカメでご勘弁。
え~壮行会から帰ってきて、酔っております。
とっとと書いて寝るべ。

最初に訪れたのは20年以上前。
当時純情一直線の城オタが女の子とデートの場所に選んでしまい、胸をドキドキさせながら訪れました。
そんな訳で、当時の記憶なんてぶっ飛んでおります。
多分、まともに見ちゃいないはず(汗)
2度目の名古屋城、楽しみに行って来ました。

名古屋城…言わずと知れた、大坂城、熊本城と並ぶ日本三名城の1つ。
天守閣に取り付けられた徳川家の威光を表す金の鯱は有名ですね。
城シリーズとして現在準備している大坂城・岡山城などにもついてるんですけどねぇ…

1609年東海道防衛の最大拠点として築城。
その後、明治維新まで徳川御三家の筆頭である尾張徳川家の居城として栄えた。
残念ながらB-29の焼夷弾により天守閣を含むほとんどを焼失。
再建は昭和33年。翌34年に竣工。
再建大天守は五層七階、外観はほぼ忠実に再現しているが、最上層の窓は展望窓として焼失前より大きなものとしたので、下層の窓と比較すると若干違和感があるとか…そう??

そして大事な事は…

開園時間は9:00~16:30です!(閉門17:00)泣

正門

閉ざされた正門(天守と共に焼失・復元)

名古屋城

ああ、日が暮れる…(泣)
どこか、外からでもOKな撮影ポイントは(汗)

ああ、日が沈む

この後、完全に日没。
きれいに撮れる場所を見つけたのはその後でした。
正門から1周して、再び戻る寸前。逆周りしておけば…orz

結局中には入れず終いで、次の機会を待つ事になりました。
現在、やはり焼失している本丸御殿の再建計画があるらしい。
しかし、それまでに行っておきたいね。
はい、終わり。
お休みなさい。
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